私の弟

第 14 章

教室は 2 年余りで藍住と市内佐古との 2 箇所に出来、順調に進んで行き、生徒方もどんどん増えて来ました。その上、弟はその当時やっと 2、3 人の生徒さんの中国語のレッスンを持つようになって本当に楽しそうにしていました。生徒さんも日本人の先生が教えてくれるので、よく理解が出来ると言ってくれたみたいです。中国語は最初が少し難しく、日本で初めて中国語の通訳者になった方も最初は日本人から学んだと言っていたそうです。もちろん徳島では、その時、未だ中国語の教室は無いに等しいぐらいだったとのことでした。弟も帰国してから 20 年ほど過ぎて、やっと中国語を学んだことが役立って来たのです。本当に長い道のりだったと思いました。親友のケビンも彼女の英会話講師の契約が終わったので、その年の 8 月にカナダへ帰国することになりました。弟はケビンが徳島を離れる時、カナダで再会する固い約束を交わしたそうです。そして、10月に思いがけず5人の大人の生徒さんがケビンのいるトロントへ連れて行って欲しいとの依頼が有り、5泊7日のカナダトロント旅行をすることが出来ました。まさかケビンもこんなに早く会えるとは思っていなかったようですが、彼の友人や近所の方まで弟たち一行を歓迎してくれたと言っていました。教室はデビーが来てから生徒も順調に増えて12月ごろには生徒全員で60人ぐらいになっていたらしいです。しかし、残念ながら生徒を増やしてくれたカナダ人のデビーは 1 年半の滞在ビザしか取れなくて 1996 年の 11 月には帰国することになっていました。当然、また先生が必要になるのですが、その時、徳島駅近くで英会話教室を経営していた友人が、教室を閉めるので、弟の教室の方で現在雇用しているカナダ人女性講師を使ってくれないかとの話が来ました。

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私の弟

第13章

そして年が明けて翌年、1995 年 1 月末の有る日、ピーターが浮かない顔で弟に、イギリスに住んでいる両親のお世話をするため 2 月末には日本を離れなければならないと話しました。個人経営の事業はこんなことがよくあるので、常に幅広く人間関係を作っておく必要がありますね。早速 2 月以降のことをケビンに相談しました。そうしたらカナダの彼の実家のお隣に親しい女性がいるから、日本で英会話講師として仕事をすることに興味が無いか尋ねて見ると言ってくれたそうです。もちろん来ることが出来ても、直ぐには無理と思うので、その間はケビンと彼の彼女、大手英会話学校の講師で、同じカナダ人が時間の合間にレッスンを引き継いでくれると約束してくれました。そして、幸いにも彼のお隣であり、友人の女性デビーが 3 ケ月後に、カナダからやって来ることになりました。彼女が来れば住まいと、移動に使う車が 1 台必要になるので、弟はその準備にも忙しくしていました。結局デビーが来た時には、小さい中古の普通車を準備出来ましたが、アパート兼教室が間に合いませんでした。そのため準備する 1 ヶ月間は弟の自宅へホームステイすることになりました。彼女は36歳でとっても明るく、ユーモアーがあり、また子供にも大人にも大変人気がありました。そして弟は、この先生であれば必ず人気のある語学教室を作れると思い、私のパン屋の2階の教室を引き払い、佐古 4 番町の立派な 11 階立てビルの最上階に教室を移しました。そこは先生の住まいにもなり、ケビンもデビーも豪華な環境をとても喜んでくれたそうです。

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私の弟

第12章

当時は先行投資ということで語学教室の方へ資金を廻していたようです。バブル経済期は終わっていましたが、弟の本来経営する仕事で生活するには十分な収入があったので、2つの仕事が出来たのだと思います。また、このようなことが出来るのも台湾で学んだ仕事の仕方で、台湾人は仕事のノウハウを学ぶと直ぐに起業すると言っていました。個人が2つ以上の仕事し、また経営するのはとても多かったと教えてくれました。弟にとっては何にも特別なことでは無かったようですが、友人の何人かは否定的な意見だったそうです。44 歳になる 2 ケ月ほど前から本格的にスタートしたことになるので年齢的なことを考えると、そのようなアドバイスになるのは当然でしょうね。そして翌年 1994 年には藍住町の新しい教室で生徒を増やす計画をしていました。実は 8 月ごろにカナダ人、ケビンという若い男性と知り合って友達になっていました。彼も英会話を教えるアルバイトを希望していたのですが、その時点では未だ教室も無かったので、レッスンを持てませんでした。但し、弟は彼のことが大変気に入っていました。とにかく非常に誠実な若者だったらしいです。また、彼の友人には日本で英会話講師として仕事をしたい人がたくさんいると聞いていたので、後にフルタイムの先生を雇用すればレッスンを増やすことが出来ると考えたのです。11 月になって藍住教室もレッスンが始まり、私のパン屋の 2 階と 2 箇所でレッスンをするようになりました。

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私の弟

 

第11章

なんと!1 週間後、そのアメリカ人から連絡がありオーストラリアから来た男性で、ピーターという人が英会話の先生の仕事を探していると言うのです。自宅の電話番号を聞いて、次の日早速、連絡を取ると日本人女性が電話に出ました。奥様は日本人でした。また、弟の自宅からさほど遠くない藍住町に住んでいたとのことでした。自宅へ来て下さいと言うので、弟が尋ねて行くと大きな日本家屋の家で、どうやら奥様の実家だったようです。オーストラリアで知り合い結婚して、徳島で生活をすることになったとのことでした。実はご主人はイギリス人で元海軍にいたとのこと、その後オーストラリアに住んでいて、そこで知り合ったそうです。弟より大分年上で 51 歳だったそうです。奥様ともかなりの年齢差があったと聞きました。しかし、とても経験豊かでユーモアーのある人だったので、パートタイムの英会話の先生として雇うことにしたと言っていました。そして、 1993年2月、最初の生徒さんは、2人の小学生姉妹でした。とにかく、弟は初めて英会話に触れる生徒さんが楽しくなることだけを先生に求めたようです。やはりそのことは直ぐに結果として現れて来たらしく生徒さんが徐々に増えて来ていました。また、保育園からも問い合わせがあり、お得意先の一つになりました。その年の 10 月ごろには藍住町に空きアパートをリホームした新たな語学教室をつくり、念願の事務所もそこへおきました。そして年末には生徒が 20 人ぐらいになっていたそうです。元々、弟自身が外国語を学ぶことが好きなので、生徒やお得意先がどのような語学学習を望んでいるか良く分かるらしいです。

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私の弟

第 10 章

その後、弟は生徒本位の独自の語学教室を持ちたいと思うようになったそうです。人生は不思議ですね。ピンチになった時、逆にチャンスに向かって行くようになるとは、でもそんな簡単には行きません、多くの時間も必要です。語学教室を開くといっても先生のこと、もちろん場所のこと、問題をクリアーして行かねばなりません。先ず場所の件ですが、姉の私が営業していたパン屋の 2 階、かつて弟が台湾から結婚をするため帰国した折、滞在した部屋が空いていたので、そこへホワイトボードを置き、長いテーブルを 5 脚、パイプ椅子 8 脚を購入し、一つ教室を作りました。大きな看板を外に取り付け、名前も決まっていました。シャロンランゲージスクールです。そして、後は先生を探すことだけになりました。弟はいろんな方面に友人が多いので、あちこちに声を掛けていました。そうしたら1週間後、1人の友人から連絡がありました。個人の語学教室を持っているアメリカ人男性が、生徒が増えて管理が出来ないので手伝ってくれる日本人を探しているとのことでした。弟は早速、彼に会いに行きました。彼との話は大変打ち解けて出来たのですが、やはり自分の語学教室をスタートさせたい思いが強かったので、丁寧にお断りしたそうです。そして、実は現在自分の語学教室の先生を探していると伝えて、今後もお互いに協力して、情報交換しようと分かれたそうです。

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私の弟

第 9 章

実は香川県ではかなり有名な語学学校が徳島へ進出してくるとのことでした。徳島分校を開校するということだったのです。営業スタッフを募集していたので、早速、本校のある高松市へ面接を受けに行ったらしいです。相変わらず目的を持つと行動が早いのが弟で、その時 43 歳でした。語学学校の経営者はニュージーランド人でした。30 分ぐらい話をしましたら、とても面白いと、弟に興味を持ってくれて採用が決まったとのことでした。但し、経費として燃料代が支給され、集めた生徒さんの月謝から定額のパーセンテージを受け取る賃金形態だったようです。それでも事務所では何人かの外国人講師方と英語で会話が出来るので満足したらしいです。弟は自分個人の仕事をしながら副業として生徒集めの仕事を始めたのでした。すでに徳島分校は準備が出来ていたので、時間がある時はそこへ行き外国の先生方とおしゃべりしていたとのことでした。そんな環境にいることだけでも楽しかったと思います。3 ヶ月過ぎた頃、高松の本校でミーティングがあるので参加するようにとの連絡がありました。少し面倒だなと思いながら徳島分校で事務の仕事をしている女性と 2 人で出席しました。そして、弟はその時のミーティングの内容がとてもレベルが低いと感じたそうです。また、こんな経営方針で経営が出来るのであれば自分でも出来るのではとも思ったそうです。簡単に言えば余り生徒本位ではないので、そのことに大変驚いたと言っていました

(第10章につづく)

私の弟

第 8 章

弟は結局、約 5 年間新会社で仕事をしましたが、いよいよ本当に、1 人で個人営業する時がやって来ました。当時は未だバブル経済期だったので個人事業主になっても収入は安定して十分あったようです。弟は前の会社の 5 年の間に仕事で韓国へ行ったりしていましたが、個人で事業を始め自由になったので、翌年、1989 年、久々に仕事と全く関係なく、有る旅行ツアーに参加してスイス、エジプト、イスラエルと 13 日間(11/19~12/01)ゆっくりと異文化を見学して来ました。旅費もかなり要したようですが、長い間、海外や外国語に触れていなかった弟にとって、この旅行は再び夢多き時代を思い出す良い機会になったようでした。これも妻である彼女の協力があってこそ出来たのです。しかし、人生はなかなか先が見えないものですね。1991 年からバブル経済期の崩壊が始まりました。経済市場はどんどん不況になって、当然、弟もその影響を受けました。このまま同じ業界での経営は無理と思い、有る方に相談すると、その方が弟に「あなたは語学が出来ると聞いているので、語学教室をしたらどうですか?」とアドバイスくれたとのことでした。しかし、弟は当時、大手の英会話を教える会社がいくつもあったので、余り気が進まなかったとのことでした。その日帰宅して、そのことを奥さんに話すと意外と彼女は「好きなことだからやって見たら」との意見だったと言っていました。そして、1 週間後、本当にタイミング良く、ある情報が入りました。

(第9章につづく)

私の弟

第7章

弟が自宅の新築を着工して間も無い頃、1 年ほど前に会社を退職していた弟の前の上司の方から連絡が入りました。話の内容は共同出資で新会社をしないかとのことでした。弟は上司の人柄もご家族のことも、よく知っていたようです。やはりこの時も、いつものようにお誘いがあったということですね。何か新しいことが出来るのではという思いと未知なるものへの好奇心も出て来ました。そして、自宅が 5 ヶ月で完成した直後に、帰国後入社した会社を取締役から引き止められながらも退職し、前の上司の方の他に 2 人の出資者を含め 4 人の共同出資で新しい木工会社を設立しました。事務員さん、職人さんなど全員で 8 人の小さな会社で、前の上司と弟の 2 人が慣れた営業活動をすることになりました。弟は仕事の計画などは自分で行うので、それなりに楽しく、収入も前の会社に比べずいぶん増えて来ていたようでした。折から日本もバブル経済期に向かっていたので順調に営業活動が出来たと言っていました。私も弟の仕事がこのまま継続してくれることを期待していました。新会社が 4 年過ぎた頃、残念ですが、やはり問題は起きました。最初会社を始める時、共同出資の会社は利益を上げると、利益分配のことで問題が生じやすいと聞いていたのですが、結局、弟と前の上司の 2 人は会社の出資金を受け取り、会社の役員を辞めることになりました。しかし、会社の工場は就業しているので、それぞれが商品を特別な価格で買い取り、お得意先へ販売するということで仕事の継続は解決出来ました。

(第8章につづく)

私の弟

第 6 章

その後、会社の単調な仕事の中にも多少の変化があったようです。その一つはフィリピンの会社とも関係が出来て、取引先の社長が会社へ訪問してきた折、工場案内を任されたりしていました。しかし、普段は 1 人の営業社員として県外へ出張もしていました。帰国当時の 2 年間ぐらいは出張する時も NHK のラジオやテレビの中国語、英会話番組で使用するテキストを常に持っていました。列車の中でそれらテキストを開いた時、過去の思い出に浸れ、楽しい気分になっていたらしいです。但し、日本海側の山陰地方を 1 人で海を見ながら列車に乗って出張に行っている時、どうしてこんな仕事をする結果になったのだろうと、落ち込むことも何度かあったと言っていました。きっと台湾留学中には想像も出来ない未来だったと思います。そして、それから歳月は更に過ぎ去り、弟はいつの間にか語学学習は全くしなくなっていました。何故なら会社においてはほとんど中国語や英語も必要が無く、常に営業成績のことだけを考える生活をしていたのです。それから弟は入社して6年過ぎ去った33歳の時、自宅の新築に着工しました。姉の私もこのことを知って大変嬉しかった記憶があります。好きな外国語からは遠ざかってしまいましたが、仕事と家庭が順調であればそれで十分幸せだと思っていました。

(第7章につづく)

私の弟

第5章

弟は自分が台湾から離れたのが、一つの契機になったのかも知れないと言っていました。弟は新しい店を開店した女性 2 人と、とても親しかったので、会いたくなって金城さんに連れて行って貰ったとのことでした。場所は中山北路の二段か三段辺りだったとのことで、「七星」という店名だったようです。以前よりは小さい店でしたが、お客さんが立て込んでいたらしいです。彼女たちとも、久々に会ってお互いが笑顔で挨拶をしました。また、弟が以前仕事をしている時の馴染みのお客さんまでその場にいて声を掛けてくれたらしいです。たくさん話がしたかったのですが、忙しいそうなので、その店を直ぐ後にしてホテルへ帰りました。やはりその時、2 年の歳月が過ぎ去ったことをすごく感じたと言っていました。翌日からお得意先の方々と市内観光をし、3泊4日の台北旅行を楽しく終えて帰って来ました。次の日はかつての懐かしい台湾留学時代のことを少しは思い出すかと思いましたが、いつものように会社へ出勤し、また単調な仕事に戻ったようでした。当然のことですが、人は自分の選んだ好きなことをしている時が、最も活き活きしていますね。弟をずっと見ているとよく分かりました。何とか今までの多くの経験が仕事に活かされることを願うばかりでした。

(第6章につづく)